episode 01
僕の瞳には、職人の親父がかっこよく映っていた。
STORY
僕が物心ついたときにはもうすでに布団に囲まれ、布団と共に生活
してきた。 そんな生活を創り上げてくれていたのが親父だった。 布団屋を長年営んでいた親父は、決まった時間に決まった枚数を1枚1枚丁寧に仕上げていくというこだわりの布団職人だった。 僕の瞳にはそんな親父がいつもかっこよく映っていた。 親父はいつも、とびっきりのフカフカの布団を作っていた。 たぶん、その影響だろうか、何となく綿のフカフカのお布団を干したときの気持ちよさ、そして匂い、感触がたまらなく感じていた。 今でこそ、寝ることは快適な生活を送るうえで最も重要な土台だと言っているが、その当時は当然そんな捉え方はしていなかった。 でもその当時、僕はあることを知っていた。「うちの親父は、何か気持ちよさそうなものを作っているな」と。
してきた。 そんな生活を創り上げてくれていたのが親父だった。 布団屋を長年営んでいた親父は、決まった時間に決まった枚数を1枚1枚丁寧に仕上げていくというこだわりの布団職人だった。 僕の瞳にはそんな親父がいつもかっこよく映っていた。 親父はいつも、とびっきりのフカフカの布団を作っていた。 たぶん、その影響だろうか、何となく綿のフカフカのお布団を干したときの気持ちよさ、そして匂い、感触がたまらなく感じていた。 今でこそ、寝ることは快適な生活を送るうえで最も重要な土台だと言っているが、その当時は当然そんな捉え方はしていなかった。 でもその当時、僕はあることを知っていた。「うちの親父は、何か気持ちよさそうなものを作っているな」と。
僕が物心ついたときにはもうすでに布団に囲まれ、布団と共に生活
してきた。 そんな生活を創り上げてくれていたのが親父だった。 布団屋を長年営んでいた親父は、決まった時間に決まった枚数を1枚1枚丁寧に仕上げていくというこだわりの布団職人だった。 僕の瞳にはそんな親父がいつもかっこよく映っていた。 親父はいつも、とびっきりのフカフカの布団を作っていた。 たぶん、その影響だろうか、何となく綿のフカフカのお布団を干したときの気持ちよさ、そして匂い、感触がたまらなく感じていた。 今でこそ、寝ることは快適な生活を送るうえで最も重要な土台だと言っているが、その当時は当然そんな捉え方はしていなかった。 でもその当時、僕はあることを知っていた。「うちの親父は、何か気持ちよさそうなものを作っているな」と。
してきた。 そんな生活を創り上げてくれていたのが親父だった。 布団屋を長年営んでいた親父は、決まった時間に決まった枚数を1枚1枚丁寧に仕上げていくというこだわりの布団職人だった。 僕の瞳にはそんな親父がいつもかっこよく映っていた。 親父はいつも、とびっきりのフカフカの布団を作っていた。 たぶん、その影響だろうか、何となく綿のフカフカのお布団を干したときの気持ちよさ、そして匂い、感触がたまらなく感じていた。 今でこそ、寝ることは快適な生活を送るうえで最も重要な土台だと言っているが、その当時は当然そんな捉え方はしていなかった。 でもその当時、僕はあることを知っていた。「うちの親父は、何か気持ちよさそうなものを作っているな」と。
episode 02
全ては、あのとき父親に言ったことから始まった。
STORY
それは突然やってきた。僕が小学校3年生のときだった。
近くに、田舎の町としては、どデカイ某有名大手デパートができた。
いくら小学生とはいえとても心配だった。
布団屋のうちが大丈夫なのかって。
ある日、茶の間で親父と母親と僕の姉の3人が話していた会話を、
偶然通りがかった僕は聞いてしまった。聞く気は全くなかったが、
あるコトバが僕のココロとカラダを一瞬にして止めたのだった。
それは、大手デパートの影響で、家の売上が激減してしまっているということだった。僕はショックだった。心臓が強く締め付けられる感じがした。
その痛みに耐えられなかった僕は、茶の間に入って行き座っている親父の間の前に立った。自分でもなぜ、父親の前に立ったのか全く分からなかった。
その直後、口が勝手に開き、あるコトバが飛び出したのだった。
「俺は絶対大きくなったらこのデパートよりデカイ布団屋になるんだ!
この店をデカクするんだ!」
親父の布団屋を継ぎ、大きくすると宣言してしまったのだった。言った自分が驚いた。正直「言ってしまった…後に引けない」という気持ちがいっぱいに広がっていた。
それと対照的な親父のなんともいえない表情と姿が、今でも僕の脳裏にはっき りと焼きついている。
その後小学校の僕の卒業文集にも、某大手デパートよりでかい布団屋になるって書いた。親父の布団屋を大きくすると言っているものの、正直100%できると思ってもいなかったし、大きくできるかどうか確信は全くなかった。
たぶんそれ以前に、何か親を助けたいという気持ちがあったんだと思う。
その後迷いや不安はあったものの、親を助けるために布団屋の道を歩んだのだった。
そして、僕は布団の奥の深さを知ることになるのだった。
episode 03
こうして僕は、布団の武者修行へと旅立った。
STORY
小学校3年からずっと野球小僧だった僕は中学、高校と進み、大学進学を目指していた。
しかし、野球にのめりこんでいた僕にとって受験は、甲子園以上の高い壁となっていた。結果は悔しくも不合格。翌年も心機一転、布団を作る親父のように、1問1問丁寧に打ち込んだが、結果はまたしても不合格。
親父は一浪も二浪もしてもいいと応援してくれたが、家のことを考えると、これ以上浪人生活を続けることはできなかった。そんなとき僕はあることを思った。
それは大学で学ぶよりも現場で学び、経験を積むということだった。
そしてあるとき、僕は「俺はこれから三年間修行に行くから、どこか修行先を見つけてくれ」と親父に言った。それを聞いた親父は取引業者や知人友人を片っ端からあたってくれた。
そして、快く引き受けてくれたのが、その当事神奈川県ナンバーワンの横浜のお店だった。
そこは綿を打綿したり、うち直しする工場を持っている布団屋さんだった。布団の製造から販売、お客さんのフォローと全てを学ぶことがきるお店で、まさに僕にとって最高の環境だった。
最初の1年目は、打綿したものを神奈川、東京の布団屋さんに届けることをした。一生懸命布団屋さんを回り、布団屋さんとの関係を作っていった。各布団屋さんの実情を学ぶのには最適な期間だった。
しかしその1年間の学びと経験は僕の今までのこと、そして父親のことすらも否定するようなものだった。
小さい頃から親父の仕事を見てきて、知識には自信があったがいともカンタンに崩れ去ってしまった。職人側と販売店側、そしてお客さん側と三者の現状と求めているものに大きな違いがあったからだった。
お客さんに最高の眠りを提供したいと思っていた僕にとっては、大きく心が揺れ始めていた。
そして二年目にあるお客さんの部屋に伺ったときに衝撃的な光景を目にして、僕の決心は固まったのだった。
episode 04
なんで布団は、こんなひどい扱いをされているのだろう…。
STORY
二年目以降僕は、お店に入って販売をすることになった。
販売といっても寝具の販売でなく、ほとんどが、電話が掛かってきてお客様の自宅への訪問だった。電話の主な内容は「布団を見てもらえるかしら」とか「布団がぺちゃんこだから取りに来てよ」などだった。
僕はお客様と話すときにあることを心がけていた。
実際に綿を見て、「この綿だったら打ち直しをやめて新しいのに買い換えた方がいいです」と言ったり、「これだったらお客様大丈夫ですから、ちょっと5枚足して作りましょう」とか、「じゃあ敷布団一枚から座布団を作りましょう」とか、右から左に寝具を売ったのでなく、この商品をどのように作り変えると、お客さんは一番喜んでもらえるだろうかということをずっと考えることだった。
僕はお客さんの要望とか不満を聞くということを、誰に教えられたわけでもなく、この人の要望って何なんだろうということを徹底的に追求した。ただただ、お客さんがよりいい眠りをして欲しい、快適な生活をして欲しいという思いは、日に日に強くなるばかりだった。
たくさんのお客様の日々使っている布団を見てみると驚くべきことが分かった。それは、すごくきれい好きなお客様もいる一方で、すごくいいところのお住まいの方でも、平気で10年15年。もう手袋をしないと触れないようなひどい状態のお布団を使っている方も多々いたのだった。
「こんないいお住まいなのに、なんでお布団だけこんな扱いなんだ!」ものすごいギャップを感じた以上に、何で人生3分の1も使うものを、何でもっと重要視しないんだろう、何で寝具の価値はこんなにも低いんだろうと痛感した。
そしてあるとき、その思いは爆発したのだった。
episode 05
あの日、僕は、眠り業界の現状を変えたいと強く思った。
STORY
車業界の仕組みは非常に素晴らしい。車検がくればもう自動的にメンテナンスするから。しかしお布団の場合は法律で定まった車検のようなものがないわけで、中にはとんでもないお客様がいたのだった。
それはあるとき、スプリングのマットレスの交換にご自宅に伺ったときのこと、マットレスをひっくり返してみるとそこには真っ黒に変色した下地に、白と緑のカビが至る所にびっしりあった。
あっという間に3年の修行を終え、僕は再び親父の店に戻ってきた。
僕は、すぐにあることを始めた。それは、多くの人に最高の眠りをしてもらえるようにすること。そのために僕は、ある行動に出たのだった。
あまりにもひどい光景に目を覆いたくなったが、お店に戻ってから処分のためにそのマットを切断したら、さらに想像を絶する光景が待っていた。
その当時は婚礼で50万とか100万とか持っていく時代。押入れの中の使わないものにお金をかけているのに、自分たちが普段使うものは全くお金をかけていない。しかも体に悪い状態のものを平気で使っている。
そんな現状に苛立ちすらを覚えた。
より多くの人に、正しい眠りをして欲しい。自分に合った寝具で寝て欲しい。快適な生活を送ってもらいたい。
僕の思いは大きく、そして強くなるばかりだった。
episode 06
どうしても親父の布団をみんなに広めたくて…。
STORY
武者修行を終えて親父の店に戻ってきた僕の前に、たくさんの課題が山積みだった。ディスカウントをやって
いる布団業界の真っ只中、同じように価格勝負を挑むにもお金がない。
そして商品を並べる場所もない。さらには銀行もお金を貸してくれない状況。某大手デパートの勢いもあり、状況は予想以上に悪化していた。
僕たちの一番の武器は親父の手作りの布団の質だった。生産性は他店の半分以下だったが、父親が作っている布団は、普通は綴糸を3本使うところを、うちの親父は倍にして6本使ったり。
しかも普通の布団屋さんは綴糸に絹なんか使わないのに、うちの親父は絹小町という一番高いモノを6本使っていた。圧倒的に親父の作る布団は最高級のものだった。
徹底的にいいものを作っていたこだわりの親父、でもこんなにいいものを作っているのに、なんでお客さんは来ないんだろう…
僕は、修行中の経験を思い返していた。そして僕はあることに気づいた。それはうちには宣伝の仕組みが全くないことを。しかし宣伝していなかったのは、単純にそんなお金がなかったからだった。
そんな中、昔から親しくしている近所のナショナルチェーンの社長が「うちの輪転機を使って、学級新聞みたいなものでもいいから作ってみたらどうか」というアドバイスをくれた。
僕はその話に飛び乗った。修行時代ひと月3万円を貯めていた資金を全部商品の仕入れに使った。ただし9800円だけ残して自転車1台買って、借りた輪転機で作ったチラシを手配りし始めたのだった。
期待に胸膨らむ一方で、反応は全く無かった。資金はすでに底をついていた。しかしどんなときも親父はこだわりの布団つくりは全く妥協していなかった。そんな親父の姿を見て、僕も宣伝活動を妥協しなかった。
すると、本当に少しずつではあるがお客さんが来てくれるようになった。もう嬉しくて、涙が出そうになるのをこらえながら布団の説明をした。お客様が喜んでくれた。
そして、次の日あまりの寝心地のよさにお礼の電話をしてくれるお客様まで現れた。気づくとお店には、たくさんのお客様たちが溢れるようになっていった。
しかし、そのとき、僕はある大切なものを失ってしまっていることに気づかなかったのだった…。
episode 07
あの出逢いが、僕のこだわりを実現するきっかけになった。
STORY
とにかく、うちの親父の作っている布団はどこと比べても恥ずかしくはなかった。打ち直し、手作りをメインに最初は始めていたが、それからだんだんと噂が噂を呼びお客様が増えていった。ある程度のお金が手元に残っていた。
しかし、軌道に乗り順調な僕は、ある大切なことを忘れてしまっていた。それは「お客様を喜ばせること」だった。
そしてお互いに意気投合して、安ければいいではなく、本当の眠りをして欲しい。そのための本当にいいものを届けたい。そんな思いでそれまで販売したことのないような寝具を次々と売り出すことになった。
その直後、健康寝具ブームの波が訪れることになった。ますます、お客様は増え、売上は上がったものの、再びある問題に直面することになったのだった。
カンタンに何も考えないで、業界全体の流れであるディスカウントの流れ「安いものを大量に仕入れて、低下価格で大量に販売をする」に乗ってしまっていた。
親父のこだわりの布団を、お客様が喜ぶために届ける。という思いがいつの間にか、大きく大きくずれてしまっていた。
売上も上がり、同業種から注目され、そして大手コンサルティング会社からは、業界の草分け的モデル店舗として扱われ僕は舞い上がっていたのだった。
そんなあるとき、僕は運命的な出会いをするのだった。それは、布団業界の最大手の西川チェーンさんとの出会いだった。
西川チェーンの人たちと話して、僕の持っていた布団や眠りに対する熱い思いがいっきに溢れ出した。
episode 08
だから僕は、今日も眠りについて熱く語る。
STORY
ほとんどの商品が業界全体で頭打ちをしている中で、上りのエスカレーター状態の商品があった。それが枕だった。一方的にいい枕を販売していた時期もあったが、やはり、それでは全てのお客様をきっと満足させることはできないと思い再び悩みを抱えていた。
その後、パートナーの西川さんに思い切って相談してみると、整体の先生を紹介してくれることになった。僕は整体の勉強をして、体の仕組みを深く理解することができた。すると、深く学ぶにつれて、マットや枕はもちろん、寝具が人体に与える影響の大きさに、今まで以上に寝具の重要性を痛感することになったのだった。
それ以来、たくさんのことを勉強した。ボタニカルと言うハーブのブレンダーの学校に通ったり、良いと言われる東洋医学も学びに全国を歩いた。さらに、素材を求めて海外に原料を見に行ったり、日本各地、本物と呼ばれるものを作っている職人さんにいろいろ話を聞かせていただいたりした。
そんなある時、僕は大きなことに踏み出した。それは皮膚呼吸を止めてしまい、人体に悪影響のアクリル毛布の販売をやめたのだった。「アクリル毛布お詫び」というチラシを出して、「アクリル毛布の販売を控えることになりました」とお客様はもちろん同業者にも宣言したのだった。
業界内外から反発も数多くあった。昔からのうちのお店を最初育ててくれたお客様は「なに高飛車になっているの」「何かお店に入りにくくなっちゃった」という反応すらあった。
ところが今まで出会っていないお客様が、今まで考えもしなかった遠くからご来店し、「こういう店を探していたんだ」とか「こういうお洒落な、こういういい良い物だけを置いている布団屋さんもあるんだ」というコトバが次々に飛び込んできた。
それをきっかけに「ああ、やっていることは間違いじゃない。この指止まれっていう勇気を出して1本指を立てておけば、止まってくれる方もいるんだ」と僕は確信したのだった。
気づけば、西川チェーンをはじめ、業界で僕のやっていることをマネするところが次々に現れてきた。そして眠りを大切にして、自分に合った寝具を選ぶお客様も増えてきた。そして何よりも、眠りに対する意識が全国的に活性化してきた。
僕は、小さい頃から夢見てきた「親父の布団屋を大きくすること」が、今はそれにさらに加わっていることがある。それは「眠りから日本を元気にすること、眠りで元気になった日本が世界を元気にすること。」である。より多くの人たちが、快適な眠りをして、豊かな毎日を送ってくれることを心から願っている。
昨日の眠りは最高の今日につながり、今日の眠りは、輝く明日へとつながるのだから。今日も僕は眠りについて熱く語る。